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東京地方裁判所 昭和39年(むのイ)171号 判決

申立人 蔵本巽

大五・三・二五生 在監中

決  定

(申立人氏名略)

北支派遣第十二軍法会議が昭和十四年六月二十六日言渡した右の者外一名に対する強盗殺人被告事件の裁判の執行につき申立人から適式の異議の申立があつたので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

申立人に対し第一二軍軍法会議が昭和一四年六月二十六日に言渡した強盗殺人罪による無期懲役(後に懲役二十年に減刑)の確定刑につき、昭和二十七年五月二十九日徳島地方検察庁検事辻本修がした刑の執行指揮中、執行済期間の終期を昭和二十年八月三十一日としたのを昭和二十一年九月二十九日と訂正する。

その余の本件申立は棄却する。

理由

本件申立の趣旨および理由は昭和三十九年三月三十日付申立人提出の「執行に関する異議の申立書」のとおりであるからここにこれを引用する。

記録によると、申立人は、昭和一四年六月二十六日北支派遣第一二軍軍法会議において強盗殺人罪により無期懲役(ただし、昭和三十二年二月二十六日懲役二十年に減刑)に処せられ、同日右裁判は確定し、同日から旅順刑務所においてその刑の執行を受けるうち、占領したソ連軍の軍制下におかれたものであること、昭和二十七年五月二十九日徳島地方検察庁検事辻本修が右刑の残刑執行指揮をするに当つて、昭和二十年九月一日ソ連軍によつて釈放されたものとして旅順刑務所における右刑の執行済期間を昭和十四年六月二十六日から昭和二十年八月三十一日までとし、昭和二十七年五月二十九日から高松刑務所において再び申立人に対し右残刑の執行が開始され、その後仮釈放を許され、同取消等がなされ、別罪の刑の執行が行われる等のことがあり、結局この刑の終期は昭和四十八年九月二十七日として現在同刑務所において残刑の執行を受けているものであること、前記のソ連占領軍による旅順刑務所における受刑者の釈放は三回にわたつて行われ、昭和二十年九月中旬頃一応終了したが、当時釈放されないで中国軍に引継がれたものが二百名程あつたことが明らかである。

そこで申立人の主張について検討するに、

(一)  まず、申立人が、自分はソ連軍によつて釈放されないで、中国軍に引継がれ、昭和二十一年九月頃同軍によつて釈放されるまで旅順刑務所に服役していたと主張するのに対し、検察官は、申立人は昭和二十年九月頃ソ連軍によつて釈放されているとするところ、申立人の徳島地方検察庁検察官事務取扱副検事岡久浩三に対する昭和二十六年十二月二十七日付供述調書によれば、申立人は、「昭和二十年八月頃終戦後すぐ刑務所から解放され」た旨述べている。

しかし、右調書は極めて簡単な内容で、釈放時の状況やその後の動静等には全くふれていないのに対し、前記のとおり終戦後ソ連軍によつて釈放されないで中国軍に引継がれたものが二百名程おり、それ等は犯罪の内容、行刑成績、前科等を基準において定められたこと、その犯罪の重くすでに前科もあつた申立人が釈放を許されずにこれに含まれていたとみられる余地が多分にあることや申立人の主張を裏付ける趣旨内容の当裁判所の照会に対する池田喜禄の回答書もあるので、申立人の主張を信用し難いものとして一概に排斥することはできない。しかし、申立人がその主張どおり昭和二十一年九月頃釈放されたとしてもその日は確認できないので、申立人に最も有利に同月三十日に釈放されたものと解するのが相当である(従つて執行終了の日は同月二十九日となる)。

(二)  次に、申立人は中国軍による右釈放は残刑の執行を免除されたものであるから帰国後の残刑の執行は無効であると主張するが、申立人の本件罪質が悪質であること、無期懲役の執行済期間が僅か七年余にすぎないこと、すでに前科もあつたこと等から右釈放が国際法上の一般原則に照しいわゆる占領軍による特赦行為と認められる余地はなく(鑑定人横田喜三郎作成の鑑定書参照)、その後の残刑の執行は有効である。

従つて、申立人の旅順刑務所における本件刑の執行の終了の時は、昭和二十年八月三十一日ではなく、昭和二十一年九月二十九日として扱うべきであるが、その後の残刑の執行については有効であると解すべきである。

よつて、主文のとおり決定する。

(裁判官 吉沢潤三 佐野昭一 小川英明)

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